西浦和地区の歴史的背景と概要

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西浦和地区はさいたま市南区内谷、曲本、松本の3地域から構成されております。

この地域は、古くは東京湾が遥か東南へ後退した後、利根川や古荒川、入間川などが運んできた沖積層 といわれる地層の上に立地しています。この地域はおよそ2,000年も前から、自然堤防といわれる川の流れで作った微高地の上に稲作等を中心とした農耕の人々が住み始めたと言われています。

古代の人々にとっては、農耕の立地条件に恵まれていたこの地に次第に人が住みつくようになり、家や田畑が増え、奈良時代には幾つかの集落が出来てきたと言われています。この地域の鎮守である氷川神社は、平安時代以前に創建された古社であると多くの郷土史家が認めていることからも、その歴史的な背景を窺い知ることが出来ます。 鎌倉時代には、今の沼影・曲本・内谷・松本・美女木・下笹目・谷口などが武蔵国足立郡笹目郷と呼ばれるほどに大きな集落となっていました。笹目郷はこの時代には神領地であったといわれておりますが、笹目郷の当時の出来事の記載をみますと地蔵堂(今の一乗院)・氷川宮・白髭社の記述があり、それぞれ免田や神領が認められていたことにも裏づけられております。

明治維新以後、武蔵知県事・大宮県・浦和県などを経て、明治4年埼玉県の所轄となり、新政府は明治5年には名主制度を廃止し、新たに戸長、副戸長を定めて近代国家への施策進めてきました。

明治8~10年頃には、内谷・曲本・松本の区域に小学校が出来たといわれています。 明治22年には大日本帝国憲法が発布され市制・及び町村制が施行され「内谷・曲本・松本新田」の三ケ村が合併して「美谷本村」となり、旧来の村を大字名で名乗ることになりました。

昭和18年には町村編成を目指す国や県の強力な指導により、美谷本村と笹目村が合併し、「美笹村」となりました。この合併は戦時下らしく極めて事務的に行われ、新村名も明治の例にならって決められました。

昭和32年には美笹村が戸田市と合併。その後昭和34年には、内谷・曲本・松本の旧3村は戸田市から分離し浦和市に移行しました。その時の世帯数は274世帯であり「西浦和地区」と呼ばれることになりました。

浦和市に合併後は、生活環境の基盤整備が遅れていたため、内谷・曲本・沼影地区で新浦和土地改良区を設立し、国の制度を活用した土地改良事業を実施して田・畑の区画整理や農道の整備を行ったことにより現在の内谷・曲本地区は整然とした区画された地域となったのです。

平成14年には、旧浦和・大宮・与野の3市合併により政令指定都市「さいたま市」となりました。

さいたま市は、現在旧岩槻市も加わり人口125万人になっています。この間、武蔵野線の開通と埼京線の開通により都内への通勤・通学の利便性が飛躍的に高まる中で、一方では首都高速の新都心への延伸や外環道の開通なども相まって、西浦和地区は武蔵浦和駅周辺を含め鉄路・陸路の東西南北を結ぶ交通の要衝として急速な都市化が進む環境基盤が構築されてきました。

武蔵浦和駅周辺の再開発も急速に進捗し、周辺地域の住宅開発も激しさを増して来ています。 274世帯で浦和市に移行した西浦和地区は、半世紀を越えた平成26年3月1日現在10,892世帯、25,629人が生活する地域として大変貌しました。急速な人口増加と都市化の進行は地域のコミュニティを稀薄にし、様々な矛盾を内包していきますが、社会福祉の分野でも同様です。安心・安全の街は、皆さん全ての願いです。このホームページはそうした皆さんに様々な情報を提供し、コミュニティ豊かな「まちづくり」の一助になると同時に、社会福祉の更なる推進役になることを願っています。

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